岐阜地方裁判所 昭和44年(わ)202号 判決 1969年9月29日
被告人 橋本昭一
昭一六・二・八生 無職
主文
被告人は無罪。
理由
本件公訴事実は
被告人は、自動車運転の業務に従事しているものであるが、昭和四四年五月五日午後六時ごろ、普通乗用自動車を運転して、岐阜県益田郡金山町戸部四、四九八番地の一先附近道路上を八幡町方面から下呂町方面に向け時速約七〇キロメートルで進行中、同所は白線によつてのみ歩車道の区別がなされている道路であるため、進路前方左側歩道上で立ち話をしている人物が視界に入つた時は、それらの人物が急に路上に飛び出してくる可能性があるから、あらかじめ減速し、進路の安全を確認して進行すべき業務上の注意義務があるのにこれを怠り、川尻久子(当四三年)が進路前方左側歩道上で友人と立ち話をしているのが視界に入つてからも、漫然前記高速度のまま進行を続けた過失により、同女に約四四メートルのところまで接近してはじめて同女を注視し、同女が急に進路前方に飛び出したので、直ちに急制動の措置をとると共にハンドルを右に切つて衝突を避けようとしたが間に合わず、自車左前部を同女に衝突させてその場に転倒させ、よつて、同月六日午前七時二〇分ごろ、同町二、五九四番地金山町国民健康保険病院において、腹腔内出血性シヨツクにより同女を死亡するに至らしめたものである。
というのである。
ところで被告人の検察官および司法警察員に対する各供述調書(中略)によれば、被告人は自動車運転の業務に従事しているものであつて、昭和四四年五月五日午後六時ごろ、普通乗用自動車を運転して、岐阜県益田郡金山町戸部四、四九八番地の一先附近道路上を八幡町方面から下呂町方面に向け時速約七〇キロメートルで進行していたこと、右場所(本件事故現場)附近の道路は幅員が八メートル、両端の各五〇センチメートルは白線で区別されて歩道となつている、速度制限のない、見通しのよい直線のアスフアルト舗装道路で、同所附近は両側に人家がまばらにある郊外であり、本件事故当時は被害者川尻久子と金森ちゑ以外に歩行者等の人影がなかつたし、他の自動車の通行もなく、ただ被告人の進行方向と反対側の車線の事故現場手前約二〇メートルの地点にマイクロバスが一台停車していただけであること、被告人が本件事故現場手前約四五メートルの地点に達したとき前方左側の歩道上に被害者川尻久子が被告人の方に背をむけ、金森ちゑが被告人の方をむいて、二人で立ち話をしているのを認めたこと、そこで被告人は速度はそのままで右両人を避けるように道路中央よりにやや進路をかえて六、七メートル進行したとき、右川尻久子が突然右道路を小走りに被告人の方に向つて斜めに横断しはじめたのを見たこと、被告人は同女との衝突を避けるため、直ちに急制動措置を講ずるとともにややハンドルを右に切つたが速度があるためなお約三〇メートルあまり進行して、反対側車線の中央部附近において同女に自車の左前部を衝突させて路上に転倒させ、よつて前記の日時場所で、前記理由により同女を死亡するに至らしめたものであることが認められる。
そこで右事故が被告人の過失によるものであるかどうかについて検討するに、本件全証拠を以てしても、当時佇立して立ち話中の被害者が、道路横断のそぶりを見せるとか、被告人に対して合図をするとか、一見して自己が道路横断の行為に出ることを被告人に予測せしめるような態度を示したことは認められないのであつて、右のような格別の事情がないのであれば、被告人が前記認定のように時速約七〇キロメートルで進行し、前記地点で前記被害者らを認めながら減速徐行せず、同人らとの間隔を保つため自車を道路中央附近に寄せ、同じ速度のままここを通過しようとしたとしても、そのことのみを以て被告人に自動車運転者としての過失があつたと認めることはできない、即ち自動車を運転するものは常に前方左右を注意し事故の発生を未然に防止するため万全の措置をとり得るようにしていなければならないことは勿論であるけれども、自動車が高速度交通機関として普及発達している現在、進路の道端に歩行者又は佇立者があるからといつていかなる場合でもそのつどその者が突然進路に出てくるかも知れないという万一の場合までを予想して減速徐行しなければならないということになると、自動車としての機能は甚だしく阻害されることになるのであつて、運転者としてはその者が事理弁別能力に乏しい幼者や泥酔者など、特に危険な行動にでることが十分予想される者であることを認識すれば格別、そうでない正常な成人であると見たならば、当然その者は自ら自動車と衝突するような自殺行為に走ることなく、危険を避けるためそれ相応の適切な行動をとるであろうと信頼して運転すれば足るものであり、公訴事実にいうようなふつうの成人と認められた相手方の相当の速度で走つてくる自動車を認識し、または当然認識しうべき状況にありながら、突如小走りに右自動車の直前を、自動車の進行方向へ向つて斜めに道路を横断するという不測の行動を予見し、これによる事故発生を未然に防止すべく減速する義務までも課せられているとは解せられないのである。
なお附言すれば、前記認定のとおり被告人は当時制限速度を時速約一〇キロメートル超えて自動車を運転しているがこれは検察官の主張する本件の注意義務の存否とは無関係であるし、そうでなくても速度超過と事故の因果関係も認める証拠はなく、また被告人が被害者らを認めた地点で警音器を鳴らしていないことは証拠上認められるのであるが、本件事故発生場所は道路交通法五四条一項各号の警音器を吹鳴すべき場所に該当せず、また同条二項によれば車両等の運転者は危険を防止するためやむを得ない場合にあたらない限り、法令の規定により吹鳴を義務づけられている場合を除き警音器を鳴らしてはならないこととされているのであつて、前記の道路情況等を考慮すれば本件の如く歩道上に人の姿を認めてもその挙動態度により危険を感じないような場合には、警音器の吹鳴が危険防止のためやむを得ないということはできず警音器吹鳴の注意義務はないものと解するのが正当であつて、この点についての被告人の過失も認められず、その他被告人に本件事故を惹起するに至つた過失を認める資料はない。
従つて結局本件公訴事実は犯罪の証明がないことに帰するから刑事訴訟法第三三六条により主文のとおり判決する。